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橋本努 講義「経済思想史」北海道大学経済学部 no.7.

毎回講義の最後に提出を求めているB6レポートの紹介です。

 

 

両角良子

 

  (11/5)マルクス=エンゲルスの「ドイツ・イデオロギー」で示されている自然成長的な社会から共産主義の理想的な生活像への変革とそれにともない「需要と供給の関係の力」を無力化させている点について順を追って考察を加えていくことにする。大きくわけて前段では自然成長的な社会と共産主義の理想的な生活像との間に、決定的な相違が存在するのか、という疑問点を中心とし、後段では本文で示される「(中略)需要と供給の関係の力は無に帰し(以下略)」はどういう意味か、そしてそれは根本的には何を示すのかという疑問点を中心といて論を進めていきたいと思う。

   まず、自然成長的社会と共産主義社会との間の相違についてであるが、私は諸個人が自由意志的に思いのままの生産活動をとるという段階においては、決定的な相違はないと思う。この見方をするうえで最大のポイントとなるのは資源の有限性という点である。自然成長的社会は一般にはアダム・スミス流の「神の見えざる手」のごとき装置が作動し、社会構成員が社会の構築を意識しなくても社会が成立し、誰にとって最適かは別として、資源配分が行われ、時にはカルテル等の独占が生じるが、いずれにせよ資源の有限性を元に資源配分がなされている。一方共産主義の理想的生活像についてはどうだろうか。仮に、一人の人がたまたまその日の午後だけ農業をしたいと思い、農業用地を探したところ、最劣等地が残っており、自分の直前にいた人にとられてしまったとしよう。この人はさらに劣等な土地に改良を加えて午前中の農業を楽しむかもしれないし、「最最劣等地」の耕作をあきらめ、別の仕事を午前中の従事の対象とするかもしれない。この例から何が言いたいのかといえば、それは諸個人の選択という行為が資源の有限性という前提下でなされる以上は当然予期せぬ選択変更、つまり有限性による制約から免れることが出来なくなり、これでは自然成長的な社会と全く同じ原理でしかないということだ。したがって、任意で自由意志に従い行動したとしても、有限性制約が効くかぎり、自然成長的社会と同じことをしていることになる。では次に、共産主義社会が自然成長的社会と決別するための強い条件を加えてみるとどうなるだろうか。私はその条件こそが「需要と供給の関係の力は無に帰し・・・」ということだと思う。この条件をもっとも端的に示すならば、価格メカニズムの崩壊であろう。従って講義中にあった「貨幣が無くなること」もしかりである。そしてさらに普遍的な定義をするとすれば、「価値尺度の喪失と価値意識(ここでは価値を意識することという程度の意とする)の喪失」となるだろう。だがここで何故決別の条件が「価値尺度の喪失と価値意識の喪失」なのか、という疑問が生じるかもしれない。私はこの点を考察する際、マルクスが求めることになる全人格の発展と唯物論を前提とした。この二前提から導出されるのは、簡単に言えば、全人格の発展のためには各人の環境・生活様式があるレベル以上となる必要があることと、それが「均一化」することだ。なぜなら、環境・生活様式があるレベル以上のもとでレベル格差が生じるなら、全人格の発展にもあるレベル以上のもとでレベル格差が生じ、平均レベルが以前より増しただけで「全人格の発展と唯物論」を実践する前と同じ状況でしかないことになるからだ。では「均一化」が生じた場合どうなるのか。価値意識が既に喪失しているためどんな交換も思いのままである。家一軒とエンピツ一本の交換も相互的行動においてなんら不自然な点はない。人間心理から言えばそのような交換は成立しない、という反論があるかもしれないが、人間心理を介入させるのなら「人間心理上、価格メカニズムの崩壊は当然のことなのか」と聞いてみたい。教育すればそうなる、というのであればそれは既に人間心理ではない。今回、人間心理を議論に加えなかったのは、その中立的立場によるからである。さてこの結果から私が疑問とするのは価値意識喪失下での交換による環境の「均一化」レベルが、自然成長的社会時の環境の平均的レベルを凌駕しうるのか、ということである。仮に自然成長的社会から共産主義社会への移行時、幸いにも環境の「均一化」が成立していたとしよう。しかしこのハッピーなケースでも生産交換から無意識的な価値譲渡が必然的に発生し、交換者相互で環境レベルの「均一化」を認識しあっても生産交換の終了時点で「均一化」の崩壊が起こる。従って以上から価値意識喪失下の「生産交換」は共産主義社会の「均一化」を失わせ、「生産交換」を失えば相対的行動形態を失うので、自然成長的社会からの決別としての共産主義社会は、自己矛盾的要素を含み、その要素の解決が出来ていないと思う。

   (11/15)

   マルクスの「経済学・哲学草稿」において今回問題としたいのは第一草稿の(四)資本の蓄積と資本家間の競争中のぺクールの著作からの引用部分についてである。「競争は任意の高官以外の何物をも示していない。(中略)激烈な競争場裡における富と時間と努力との消耗、又は途方もない濫費である」という競争市場社会に対する批判箇所について思うところを紙面の許すかぎり述べてみたいと思う。それがまず第一に「濫費」という言葉から述べることが出来る。「濫費」というからにはその背後には現行の社会形態が濫費を放置している怠慢に対する批判的な見解、或は現行の社会形態が本源的に濫費を客認するものであるとし、現行の社会形態の批判をも含意した見解があり、この場合後者であることはいうまでもない。が、ここでさらに考えたいのは、別の社会形態を思慕しながら現行の形態を「濫費」と断言することにどれだけの説得力が存在するのか、ということである。資本主義社会が「濫費」であると思うのは、一種の自己嫌悪的な反省となるが、ひとたび共産主義的社会を思慕した視点から鳥瞰した場合には、共産主義的なツールのかわりに資本主義的なツールが使われているかぎり、それは必然的に「濫費」という語しか選択しないのではないか、ということである。このように述べると早速これに対し批判が生じるであろう。

  それはたとえば「このような指摘は共産主義者が偏見で物を行っていると決めつけたものであり、冒涜的行為に近い」といったものである。確かに、誤解を与える表現であるといわざるをえない。しかしここで本当に述べたいのは、共産主義者が公正明大な視点から資本主義社会における競争市場を見たとしても必ず「濫費」と断言できるのか、ということである。つまりさらに言い直すとすれば、競争市場を想定しない共産主義社会を思慕する人々が「資本主義社会が濫費の温床であり、それは共産主義社会ではないからこのような事態が生じるのである。」と言わずに競争市場社会の「濫費」を説明することが出来るのか、ということである。仮に今ここで「説明することが出来る」と仮定してみよう。が、ここで行われる「説明」はあくまで、資本主義社会が自己反省をする場合と大差はないだろう。では、あくまで「共産主義社会ではないから濫費が生じる」といわなければ説明不能であると仮定し、しかしながら、自己の立場に都合の良い偏見に満ちた解釈を加えることなしに「濫費」の説明をすることは可能である、と仮定してみよう。もっとも簡便な説明は、客観的に判断したとき、公算主義社会で生じるさまざまなコストよりも、資本主義社会で生じるさまざまなコストの方が、絶対的に大きい、ということを証明することであろう。が、ここで生じるのは、共産主義社会と資本主義社会の客観的なコスト比較が可能か、という疑問である。初期のマルクスの著作からはこれを可能とするだけの判断要素が足りないから不可能である、と答える人もいるかもしれない。或はまた、二十世紀において存在する共産主義国と資本主義国の経済成長性を比較してそこから両国のコストを造り出せば、コスト比較は可能である、と答える人もいるかもしれない。私個人は、前者的な考え方はその通りだと思う。そして後者的な考えは、今議論の対象としている共産主義社会が変容した形で具現化されたものを議論の対象にすり替えているため、私は同調しない。が、いずれの考え方も客観的なコスト比較の可能性の有無を論ずる際に大局を外している点では同じ穴のむじなではないかと思う。では大局とは何か。ここで根幹に据えなければならないのは、コスト認識のための「装置」といったようなものが存在するのか、ということである。存在しないのは言うまでもない。

  講義中にこの箇所において「競争市場社会にたいする批判」に対して「社会主義の方がコストが大きい」ということを自由主義的に述べたらどうなるか、ということが問われたとき、「何か変だ」と感じた理由が遅まきながら今やっとわかったような気がする。そして資本主義社会を背景にその理論が構築された近代経済学で述べられる「機会費用」の考え方を想起するとき、常日ごろ各個人が「機会費用」をその都度意識することなく、資本主義社会の構成員間で同一のコスト認識を共有できることに対して、一種の喜びを感じる。ともに会話する友人が私より過剰にコストを認識するものなら、私はいつも不安に苛まれるだろう。

   (11/29)

   マックス・ウェーバーの「宗教社会学論選」の「宗教社会学論集序言」で示されている「直観的に捉えること」へのウェーバーの批判について、私の所見を述べることにする。ウェーバーはこの箇所において「ディレッタンティズムが学問の原理となっては、もはやおしまい」と評し、このような「直観的に捉えること」とはほど遠い、厳密に経験的な研究たることを意図する醒めきった論証的叙述を重複している。が、私個人としてはこのウェーバーの批判を受け入れることに躊躇を覚えずにはいられない。その理由は以下の三点にまとめることが出来よう。

   第一点目は、確かにディレッタンティズムが学問の原理となることが、ウェーバーの言うように良くないという点には、同意するが、果たしてすべてのディレッタンティズムが否定ないし却下されるべきか、という点である。そしてさらに、ここから想起するのは、ディレッタンティズムと、醒めきった論証的叙述との間の線引きは果たして明確になされうるのか、という疑問点である。マルティン・ルターが95カ条の提題を発表した時、一僧侶出会った彼ですら、カトリックの権威者達からは、「ディレッタント」のごとく見下され軽蔑された。ディレッタンティズムという言葉自体が既に専門家の自己防衛のための用語であるとは思わない。しかしながら、ここで注意しなければならないことは、今日においてもよく指摘される各学問領域内での排他性と分野別の学問的硬直性という点である。異分野からの学問的な指摘をかたくなに拒み、門外漢の意見に耳を塞ぐ態度の源泉には、ウェーバーの批判に見られる専門家的な一種の排他性、ムラ意識、硬直的態度が確かに存在する。それだけにウェーバーがこれだけの問題性を示唆するにたる学問的認識を序言の中で安易に記した事については若干の憤りを覚えざるをえないのである。

   次に、第二点目はウェーバー自身、自らの言論と行動手段の間を放浪し、妥協点で立ち止まっている点である。ウェーバーは自らの著作「プロテスタンティズムの論理と資本主義」「宗教社会学論選」でさえも、各文化の言語・民族学者の視点から見れば、「暫定的な性格のもの」とみなされざるをえない、としている。そして、彼自身の研究自体が、比較のためにほかの専門領域に入らざるをえない事を認めており、その研究内容の評価については非常に冷ややかである。自分は確かに他分野を冒してはいないから、直観的に捉える人々、つまりディレッタント達とは一線を画すとしながらも、あえてその著作に対しては満足のいく評価を下すことが出来ないとするウェーバーは、いささか自虐的に見える。そしてさらに述べるとするならば、ウェーバーは「直観的に捉えること」を非難する言論的立場と、その非難に抵触する可能性のある研究手段をとりこむ一学問人としての立場を合わせ持つことで、明らかに自己矛盾を起こしているようにもみえる。そのように考えると、自己の著述を評価しない点は明らかに自己矛盾が露見しないようにするための一種の隠蔽化工作のようでもあり、また言論的立場を維持するうえでは不可欠な要素であり、実に要領を得た行動であるといえよう。

   そして第三点目は、第一点目で私が述べた「ディレッタンティズムと醒めきった論証的叙述との間との線引きは果たして明確になされるのか」という点と深く関係している。それは、もし明確になされうるとした場合に、その線引きは、論証的叙述側の人間によってのみなされた線引きに過ぎず、ディレッタントはもちろん、傍観者も、それを飼いのみにするよりほかにないという点である。私は「ディレッタンティズム」という言葉が専門家にとって自己を防衛するための用語であるとまでは思わない、とさきに述べた。だが、少なくとも彼らには、ディレッタントと自分たちを区分する目があり、その目が判断するところの見解の信用性は絶対的である。ディレッタントがどんなに優れたことを主張しても、専門家が光を当てなければ、ウェーバーの言うような胸にしまっておくべき個人的注釈でしかない。しかしながら、この専門家の権限が常に良好な判断基準をもとに作動しているとは断言できない。むしろ「ディレッタント」と一度分類したうえでの専門家の見る目にはフィルターがかかっているような気がしてならない。それゆえに、ウェーバーの直観に対する批判に対しては、専門家のおごりが見え隠れしているような気がして、すんなりと受け入れるわけにはいかないのである。

   (11/1) 「国民国家と経済政策」において、ウェーバーが唱える国家主義政策について考察したいと思う。ここで特に問題としたいのは「われわれが子孫に餞として送らなければならないのは、平和や人間の幸福ではなくして、われわれの国民的な特質を守り抜き、いっそう発展させるための永遠の闘いです」と「その究極的な価値基準は『国策』です。・・・究極的・決定的な採決を与えるのは、ドイツ国民とその担い手であるドイツ国民国家との経済的および、政治的な権力的価値関心でなければならない、という要求です」という二つのセンテンスだ。簡単に要約すれば、ドイツ国民国家が求めるべき価値は国民的特質・特性を発展させることであり、上記のセンテンス以外の部分では、地球上で権力的支配圏を多く勝ち取ることであるといい、その価値基準とは、権力的価値への関心、つまり国家主義政策への思慕であるといっている。

  そして私がこの箇所でもっとも疑問に思うのは、価値基準の不変性への悪条件な信頼である。ウェーバーは自分たちの世代から幾千年と離れた世代にも同様に自分たちと同質の特性を見ることが出来、それを目指す、としているが、そもそも、同じ価値基準を維持し、かつその価値基準により同じ価値の意味付けを維持することが可能か、という疑問を感じる。価値基準を維持することが可能であるとすれば、そこから表される価値はある程度同じ価値表示にあるものの間で、均質化が図られそうであるが、価値基準そのものを維持し続けることは難しい。現在進行形的な人間の世代重複的なモデルを想定して考えるとして、そこに人類の思想的成長性(進代論的な成長性に限定せず退化性も含む。また、成長的か退化的かといった見極めにもその時代の主観性が加わるため、”成長性”という語に両方の方向へのベクトル的要素が含まれていることを注記しておく)や外部・内部環境の変化が存在するため、価値基準が一定というのはむしろ奇跡に近いといわなければならず、問題はどの程度変動するのか、ということになるだろう。また私は価値基準が維持されるとした場合には、それによって意味付けがなされる価値の間では、同質のものは価値基準になる表示に置いてもある程度同質的な保証がなされる、と述べたが、じつはこれもあやしいと思う。それは価値基準では同質と表示されても、実質的な価値間では、価値上の乖離が生じるということである。今と昔で百円と表示されたものが実質的には異なるといった例と同じことあるいは類似したこととして生じるのではないか、ということである。従って以上のことから、国家主義政策を価値基準とした国民的特質の発展という価値の創造と、その永続性への標榜は、一つの理想としては人によっては輝かしいものであると評価することが出来るかもしれないが、現実的に各世代の立場から見れば、好意的に見るみないは別としても、「隔世の感あり」と思わせてしまうだろう。そして長いタームでの実力発揮を課された国家主義政策が、その性格上から政策自身の採用期間も長期化し、植民地戦争・帝国主義・第一次世界大戦などを政策的に支持し、長期化させた点を思うとこれらを『ウェーバー』が主張したことに対してある種の『悔しさ』をおぼえる。

   振り返ってみると、私はいくぶんウェーバーを責めすぎていたような気がする。「くやしさ」と書いたように私は「ウェーバー」には若干同情している。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』はちょうどこの時代を生きた一人の音楽家の生涯をつづった作品であるがこれを読むと当時の様子がよくわかる。世界の派遣を巡る国家間の対立、民族問題等が噴出し、緊迫した状況であった。それだけに時代の風潮から見ればウェーバーの唱えた国家主義政策は正論であったといわざるをえないが、「未来の世代の祖となること」を求めるためには時代の流れにそのまま迎合するのではなく冷徹な目でスケープゴート(ほかの国民国家や民族)に自国の矛盾を押し付けない政策を講じて欲しかった。そうであれば、ナショナリスティックな『ウェーバー」の目までもが時代のフィルターにより自己矛盾のほかへの転嫁をも正当化できる視点にすり替えられるという現実性を遺憾に思うとともに未来のための行為が未来人からも否定されえることにも気づくことが出来ないウェーバーに本人自身の「学者」としての限界性と時代の潮流からの影響を余儀なくされた「被害者」としての性質を見たような気がする。

   (11/x) Kレーヴィットの「ウェーバーとマルクス」におけるマルクスの「全人格の発展」について述べる。マルクスは現実の近代的生活関係が人間の自己疎外の政治的表現としての市民社会であるとし、それに対して共産主義的共同体は各人が個人として最高の人格を持ちつつ、自分たちの<共有物>たる国家に参与するものとした。私はここで、マルクスが求めた共産主義的共同体が、実際今現在存在する共産主義国もしくは共産主義崩壊国にたとえ言及しないとしたとしても、マルクスが言うところの「現実の近代的生活関係」の対極的存在として位置しうるのか、また個人として最高の人格を持つ各人が<共有物>たる国家に参与することが果たして必然的なのか、そして「現実の近代的生活関係」には全人格の発展と言える局面が存在しないのか、といった問いを設定して考察していきたいと思う。

   まず真っ先に取り上げたくなるのは、最高の人格の<共有物>たる国家への参与である。そもそも最高の人格が共産主義的共同体への参与を希求するのか、という疑問が生じる。最高の人格が達成されるということは今置かれている「現実の近代的生活関係」時の人格とは異なるレベルに至ることであり、前のレベルで最高の人格の共産主義的共同体への参与を必然的にとらえたとしても、次の最高の人格というレベルでもその必然性が保証されるという根拠は何もないのではないだろうか。むしろ最高の人格は最高の人格自身独自に何か別の参与する局面を模索するかもしれないし、または「現実の近代的生活関係」時とは別の分離対象を発見するかもしれない。しかしながらこうはいっても、最高の人格がやはり共産主義的共同体を希求するかもしれないという声が出てくるだろう。だがこの説を選択するということは、最高の人格の形成が共産主義共同体を希求するほうへ形成されていくのだ、という一種の仮定的な状況を要請することになり、「最高の人格」がそれを期待する未到達状態の現時点とそれほど大差のない程度と解されても仕方がないレベルに落とされる可能性が生じてくる。これは結局共産主義志向→共産主義的意識の確立と同義であり、「最高の人格」という言葉はあくまで共産主義的意識の公への宣伝用語的な性質しか持たなくなり、その魅力は一気に減じてしまうだろう。従って最高の人格と共産主義的社会との間には連続性は存在せず、連続させようとする一種の強制力が必要であると言わざるをえない。また、次に取り上げたいのは、実際の共産主義国の事例に触れないとしても、マルクスの共産主義的共同体が、「現実の近代的生活関係」と対極的存在として位置しうるかということである。「最高の人格」が共産主義的共同体に寄与することがそれを期待する時点と大差がない以上、共産主義的共同体で起こる全人格の発展には残念ながら対して期待することが出来なくなる。むしろこれらの論理からマルクスが打ち出す「真に人格的な自由」も疑わしいものとなってくる。では近代的性格関係の中には全人格の発展を促す局面が皆無なのだろか。私はそういった局面は存在すると思う。個人が個人として最高の人格を持つように全人格の発展を進めるのが義務教育の一つの局面であろう。このめんからのみで言うとすれば、義務教育は正当である。しかしこの局面のもう一つの性格、つまりマルクスがこの局面を進めるために必要であるとといた「人間存在一般のなかにおけるすべての特殊性、あらゆる専門性からの解放」が色濃く現れるとき、義務教育は危険にさらされるだろう。義務教育の個性を埋没させる性格、排他性の助長はその代表例だ。「いじめ」られる者の第一の理由は「人と違う」ことだという。そしてその「いじめ」が小学校中学校という義務教育の現場に特に多く見られることは、精神的にまだ育っていないため等のほかの理由以上に「いじめ」に大きく影響しているのではないだろうか。教育現場が「いじめ」(生徒が生徒をいじめる状況のほかに先生が生徒をいじめる状況も含める)の温床となっている状況を実際に見てきた私としては「全人格の発展」という言葉は危険な言葉として目に映る。

   (12/13)

   橋本努「近代主体ー折原浩の学問ー政治編」雑誌「情況」について大きく二点ほどを中心として所見を述べたいと思う。その第一点目とは橋本氏の真理論批判のうちの難点2についてである。「誰の目にも明らかな真理」「問いにおいて顕現する真理」という真理観が可謬性を前提としない点で、ドグマ的・非科学的である、とか 「誰の目にも明らかな」という言い方は別の観点から物事を見ようとするものを排除 し同じ観点から一つの真理を見ることが出来るはずだと強要する、といった氏の指摘 は非常に興味深い。この論旨に従えばある一つの真理観がそれにのっとった真理を真 理と見なし、その真理が真理観を形成していくというようにそれはある一つの真理観 の自己増殖的な姿に過ぎない、という見方も出来よう。だがここであえて注意しなけ ればならないとすれば、それは「誰の目にも明らかな真理」という「真理」に対する 描写が同一観点的、別観点に排除的であるからといって、ここで描写された「真理」 そのものも同一観点的、別観点に排除的でしかないものであると断言できるのかとい う点である。真理についての考察はこれまでの数多くの哲学者、歴史家等の間でなさ れてきた。氏の言うところの「真理はむしろ、良く目を見開いたでけではえがたいも の、なかなかつかめないもの、完全には確証できないもの、として想定されるべきだ ろう。」という見方は、既に先陣達によって語られてきた、オーソドキシイとも言え よう。ここで気になるのは「誰の目にも明らかな真理」といったとき、これが絶対的 にこの伝統的な見解と相反するのかという点である。むしろ、前述のパラダイム的な 見解は「誰の目にも明らかな真理」をも普遍的に包容するレベルである点で、超越的 であり、これに基づいて否定ないしは反論するのはアンフェアではないかという気が する。当然のことながらここで何故超越的と言えるのか、何故同一観点的な真理が、 伝統的規範的な奥深い真理に相反することなく包容されるのか、という反論が生じる だろう。というのも、そもそもは「誰の目にも明らかな」という修飾語句に問題があると私は思う。と同時に「誰の目にも明らかな真理」といった際、それは真理ではないといわれれば「真理」という言葉の存在性も場合によっては危うくなる可能性が生 じるのではないかとも思う。というのは「真理」といった際にそれは既に「真理」と呼 ばれないものから隔絶させることになるからである。真理は得難いものであるから 「真理」と「あるもの」を呼び、ほかのものと隔絶させることは生じない、という反 論があろう。ではこれは「真理」に近いものである、或は「真理」になりそうなもので あるといった場合を考えよう。いずれにせよ、近くなさそうなもの、或はなりそうに ないものとの間には、壁が生じることになる。つまり、この断言、断定ではない「真 理」にちかいとか「真理」になりそう、といった表現を限界的に強めていくと、結果的には、「真理」というだけで、それ以外との隔絶を生じさせることになる。では 「誰の目にも明らかな真理」はどうなるか。これも同様であり、最初の出発点は「誰の目にも明らかに見えるかどうかわからない、真理になるかもしれないもの」であり、これが明らかに見えるかもしれないという方向と真理になりそうだという方向のベクトルの和を限界的に延ばした先が「誰の目にも明らかな真理」であり、その出発点を見るかぎりでは、ここで折原が述べたところの「真理」もやはりオーソドックスな「真理」の範疇にあるのではないか、というのが私の意見である。もちろんあくまでこの 意見はベクトル和の結末である折原の「真理」と原点ゼロに相当するオーソドックス な「真理」との間での性質上の比較対照はいっさいしていない段階でのものであり、 それ以上に判断材料を組み込むことをなんら否定するものではないが、それらを組み 込む以前の段階での意見という形では、意見そのものにはほかに欠落する条件は存在 しないものと認識している。

   次に第二点目として所見を述べておきたかったが紙面の都合上不可能となってしまったのでここで終わる。

   (11/19)

   Q1Y 授業でマルクスについて語ることはたとえ直接的に「マルクス主義」を語る形ではないにせよ「マルクス主義」の出発点を語ることであり「マルクス主義を広めることになる」と消極的に言えるだろう。そして「広める」と言うことが「普及」あるいは「浸透」の意味で用いられているならば、それはもうその段階で当初の「消極的」の域を超えて「積極的」担っていると思う。また「広める」と言うことがあくまで一知識の「伝播」の意味で用いられているとすればそれは「消極的」の域内にあると思う。

   Q2N 尋常な学生であればまず害を及ぼすことは考えられない。そもそもマルクスについては始めから否定的に捉えるスタンスを持ち講義を受けていてもそういったスタンスは崩れないと自身をもって言えるし、また否定的なスタンスにとらわれないで、客観的、中立的な姿勢を取ったとしてもマルクスについての授業から与えられそうな何がしかの害に対し、抵抗するだけの判断力を有するから、確かに害を及ぼすことにはならないが、「判断力の発展」につながるかどうかはわからない。マルクスについて学ぶことは否定するという考察の機会にはなっても、肯定するという考察の機会にはならないため、否定という考察の勉強で終わってしまう可能性がある。肯定するという考察の機会が与えられていれば、さらにそこから別の考察の機会が与えられ、学生の判断力の成長の可能性が存在すると考えた場合、否定される学問を学ぶことは学生の判断力の成長機会を奪うことにもなりかねない。つまり、機会費用的な害を及ぼすことになりかねないと言えよう。が、このように言えるのも否定するという考察の機会が、否定という考察の勉強で終わってしまうと仮定した際にのみ通用するのであり、否定という考察の勉強のみに収束しないのであれば、十分救われていると思う。

  真木修介の「現代社会の存立構造」の講義の際、本書のどの部分から生じた話かは忘れたが、学問の両義性尊重の「認識」つまり学問は「一方では・・・他方では・・・」と学問対象にプラス要素・マイナス要素をあげることで、自分の価値観にあわないマイナス的に見える価値をも明確に捉える「価値への感受性」をもつという点について感じたことを述べる。確かに学問は認識の点においては公正は立場をとり、自己の勝ち観から「認識内にある価値物を評価・勘定をしたりはしないが、実際のところは常に際どい所を彷徨しているのではないだろうか。たとえば理学部と工学部の学問認識の違いなどは、これをよく示していると言えよう。一般的によくいわれているように、理学部はどちらかというと「真理の探究」という認識が強い。それに対して工学部はどちらかというと「人間の幸福のために何ができるか」という実利的な認識がつよい。実利的な認識が強いということはここで最初に示した「評価・感情」にまでは到達しないレベルにあると言えよう。私自身は工学部的な学問認識が本来あるべき学問認識の姿から乖離したとか或は世俗化したといったような見解をとる気はもうとうない。問題は学問分野によっては「学問とは価値への感受性を維持するレベルのものである」という定義だけでは学問認識の方法論としては役不足となる場合が生じるのではないか、ということである。学問レベルの一元的な捉え方はそこから逸脱するといわれる実利主義的な学問にのみ醜聞を課すとは限らない。そのレベルにとどまることで「象牙の塔」というそしりを受けるケースもあるのである。従って古くから伝わる学問レベルの認識方法を体系的に見直す必要があるのではないだろうか。残念ながら私は対処すべく二元的三元的捉え方を持ちあわせていないので、ここで筆をおかざるをえない。

   (12/3) マックス・ウェーバーの「宗教社会学論選」の「世界宗教の経済倫理中間考察」中の「現世否定の諸段階」について所見を述べる。ウェーバーはこの箇所で「(中略)「現世内的」人間にとってこの世界においては最高のもの、つまり、このような合理的な文化所有には倫理的罪過の重荷のほかにもさらに、文化所有をそれ自体の尺度で評価しようとするならばあいさえ、その価値をはるかに決定的に喪失せざるをえないようなものが、つまり無意味かという事実がまとわりついている」と述べている。確かにその通りだと言えよう。「一個人にする文化全体の、或は何らかの意味で文化における「本質的」なものの――といってもそれには決定的な尺度などはない――受容が可能となると言ったことはますます確立の小さいことになってくる。」このセンテンスもしかりである。講義の説明にもあったようにこの箇所は実に悲観的だと 私も思うが、否定することはできない。だがこの箇所を見ていてそこで述べられているところの「一個人」の一人としてどうしても情けない思いがし、何としても反論したいと心から思ったが、決定的な反論材料は残念ながら見つからなかった。従ってこのままいくと後一二行のうちに文章は終わってしまうわけだが、それではあまりに芸が無いので、もう少し続けよう。以下で続けて書いてみたいことはただ一点である。

  それはウェーバーの述べるがごとく「「文化」なるものはすべて、自然的生活の有機的循環から人間が抜け出ていくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく」であるのかという点である。一個人は確かに文化の本質的な受容を捨て、選択により文化の部分的な受容を試みるだろう。確かに選択による文化受容は意味ある週末に到達するかどうかはわからない。だが少なくとも誰もができる限りの手段でこの行動をとる限り、それに見合った見返りが生じるはずである。そうでなければ「文化」そのものの担い手、つまりウェーバー流にいえば「天職」「召命」といった形で文化に奉仕する人々はいなくなってしまうはずである。

   (11/12)

   「人間は一つの類的存在である」とはどういうことか。

   上のことを考えるときに手がかりになるのは、類的生活、人間からの類の疎外、類的 能力と言った言葉であろう。類的生活については疎外された労働力により、人間の類的生活は個人の生活の手段になるといっている。と言うことは疎外されていない労働においては、人間は類的生活をしていることになる。類的に対する概念として個人が使われている。労働が疎外されていないというのは彼の文脈からして共産主義社会における労働のあり方をさしているのであって、そこでは人間の作り出す生産物は位置資本家の排他的な所有権に服するのではなくすべての人間のために存在することになる。それゆえ個人生活に対する類的生活とは再生産のために必然的に労働することを必要とする人間の生活が資本家など一部の人間を富ましほかの大部分を貧窮に導くような生活ではなく、人類全体の幸福なり効用なりの増進に寄与するような生活のことをいうのであろう。

 類からの疎外については「疎外された労働は人間に特有の機能を疎外し、人間から類を疎外する」といっている。人間に特有の機能とは何か。人間に特有ということはほかの動物にはないということだろう。